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夢の途中で [私のこと]

あけましておめでとうございます。
ブログの更新もままならないのに、それなりに読んでくださる方がいて、ありがたく思っています。

年の初めに近況報告をさせていただきます。
去年の11月より、実家の母を自宅に引き取り、介護の生活が始まりました。
母の腰の持病が悪化して、一緒に住んでいる弟夫婦では対応できない部分が出てきたので、我が家に呼ぶことにしたのです。

当初は、介護だけでなく、うつ病の母とうまくやっていけるかどうか不安だったのですが、案ずるより生むが易しで、遠くから暗い母の顔を思い浮かべて心配しているより、穏やかな母の顔を目の前で見ているほうが、はるかに楽だと思いました。
母が私の家にいるのは、一応、夏頃までの予定で、その先のことはまだわかりませんが、出来る限りの親孝行はしたいと思っています。

「夢見る団塊主婦」としての、私の夢は少しずつですが叶いつつあります。
自宅で始めた塾に、紹介ではなく、ホームページを見て生徒が来るようになったのです。
元気や自信のなかった生徒や、子どものことで悩んでいたお母さん方が、塾に来るようになって、明るい顔を見せてくれるようになると、塾を始めて本当によかったなと思います。

けれど、これで夢が実現したわけではないし、この先も生徒が来てくれる保証もありません。
それでも、世間的には評価されにくい子どもたちの味方になってサポートすることをライフワークとして、生徒が元気になっていく様子を見ることを私自身の喜びにして、これから先もずっと夢を見続けたいと思っています。


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イライラ [私のこと]

少しくらい大変なことがあっても、いつも明るく元気で、ニコニコしているというのが、人から見た私の印象らしい。
週に1度、介護に行っている母からは「私みたいなのに付き合っているのに、よく、そんなにニコニコしていられるわね」と感心されるし、家に通って来る生徒からも「先生は○○子ではなく、元気っ子だね」と言われたりもする。

やなことがあったり、大変なことがあっても不平や文句を言っても始まらないし、誰のためにもならないから、せいぜい家族や友だちに愚痴を言ったり、ぼやいたりするくらいで(聞いてくれる相手がいるということも恵まれているわけだし)、ストレスが増大することもなかったのだが、ここ1ヶ月間ほどはそうはいかなかった。

珍しくイライラしてしまって、それを抑えることが出来なかった。
原因ははっきりしていた。

まず、5月の初旬に、友人と一緒にツーリングに出かけた息子が、途中で滑ってしまって手にケガをしてしまって仕事を2週間ほど休むことになってしまったことが一つあった。
それはそれで大事に至らなかったからよかったといえばよかったのだが、それからすぐに今度は鼻がひどく詰って息をするのも苦しいと言いだした。2年ほど前から通っている近所の耳鼻科では埒が明かずに、最終的に大学病院で診てもらったら鼻が曲がっているので、手術をしなければ治らないと言われてしまった。
鼻の奥の骨を削る手術だという。

特に稀な手術というわけではないらしかったが、私はこわかったし、落ち込みもした。
念のために医師に質問してみたら、「危なくない手術なんてありませんよ」(率直で、患者思いのいい先生だったが)と言われてもいたし……。
当の息子自身はどうかといえば、去年も顎に腫瘍のようなものができて手術しているし、体のあちこちに支障があるので、病院は慣れっこになっていて、手術で治るのなら治したいと思っているようだった。
一番つらくて、大変なのは息子で、親としての私はそれを傍らで支えるしかないのだが、これまでも息子の次から次への病気に付き合うのは、結構きついというのが本音だった。

そんな折に、私が健康診断の心電図にひっかかってしまって、脈が42しかないのは見過ごすわけにはいかないと医師から思いがけないことを言われてしまった。もともと脈が少ないことは知っていたのだが、「問題だ」と指摘されると、自分でもどことなく体の調子がよくない気がしてきて、気持ちが後ろ向きになった。
そうでなくても、私は15年ほど前から、「後縦靱帯骨化症」という難病になっていて、その病気のことはほとんど気にしないようにはしているのだが、体や気持ちが疲れているときに、ふと意識の底から浮かび上がってきてしまうことはあった。

鼻の手術では息子は8日ほど入院したのだが、手術の翌日は、母の介護に行く日だった。手術の日は、もちろん私も病院に詰めていたし(3時間位かかる難しい手術だったが、手術はうまくいったと先生から説明を受けた)、小さな子どもではないのだから、手術の翌日は病院に行かなくてもいいとは思いながら、私はできれば母より息子の方を優先したいと思った。

けれど、それは出来ないことだった。私が顔を出さなければ死活問題だと信じて疑わない母を見過ごすわけにはいかないからだ。そんな私に、母は「本当にごめんなさい。スイマセン、スイマセン」と言って頭を下げる。
「大丈夫、何でもないから」と、私はいつものように笑い返しながら、孫の体のことも、娘である私の体のことも思い遣る余裕もなく、自分のことしか頭にない母の態度にイライラさせられた。
うつ病なんだし、自分の体が思うようにならないのだから仕方がないと、いつもは母を受け入れている私なのに、心の中でストレスが膨らんでいく。

もう一つのイライラの原因は息子の経済問題だった。息子は日給月給なので、休んだらその分のお給料が出なくなる。ケガで休んだ2週間、鼻の手術と術後の安静期間を含めて3週間近く、合わせて1ヶ月分以上の収入が途絶えることになる。
入院費は息子がかけていた生命保険でかなりの部分がフォローされることはわかっていたが、お給料の不足部分は、わずかばかりの貯金を崩すしかない。
息子が食費として家に入れている分を、私がなるべく使わないようにして貯金に回すようにしていたのだが、その努力がこういうことで水の泡になってしまうのを度々経験すると、むなしくなってしまうのだ。息子が悪いわけでもないし、仕方がないことなのだけれど。。

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不幸は突然に [私のこと]

前回、私がブログを更新したのは11月16日の午前零時過ぎだった。それからすぐに寝て、起きたらひととおりの家事を済ませて、午後からは母の病院に行った。すると、担当の医師から話があるということでお嫁さんも呼ばれて来ていた。
先生は私たちに向かって、「もう、病院でやることもないので、明日でも明後日でもいつでも退院してよいです」と言った。母を含めて私も義妹も退院はかなり先になると思っていたので、先生の言葉は意外だった。
義妹はここ1週間は忙しくて受け入れ態勢が出来ないとのことで、相談の結果、私が付き添うということで母の退院の日が、21日と決まった。

義妹との打ち合わせもあって、通常より家に帰宅する時間が遅くなり、遅めの夕食をすませて、ブログをチェックしたらコメントをくださった方がいたので、返事を書いたのが午後10時頃だった。それから、お風呂に入って布団に入ったのが午前零時頃だったと思う。寝入る間もなく玄関のチャイムの音で目が覚めた。
「こんな時間に一体誰が!」と一瞬思ったが、すぐに飛び起きた。同じ敷地内に住む夫の兄の身に何か起きたに違いないと思ったからだ。

「お父さんの容態が急変して」という姪の言葉を受けて、義姉と2人の姪、それに夫と私、息子も加わって、義兄の入院している病院にそれぞれの車で向かった。
病院に着いたのが、17 日の零時半。だが、すでに兄は帰らぬ人になっていた。

昨年の3月、義兄は68歳で会社を退職し、その直後に肺がんが見つかったのだが、診断では初期の初期ということで放射線治療でガンは消失したと聞かされていた。
実際に義兄は元気そうだったし、退職後に造園デザイナーに依頼して造ったテーマパークのようになった自宅の庭で、木や花々の世話をするのを日課として楽しんでいた。
かねてからやりたいと思っていたことを、カルチャーセンターで学び始めてもいた。

私と夫が、兄のガンが全身に転移していて、余命1ヶ月だと知ったのは、義兄が通院していたそれまでの病院ではなく、ホスピス的な病院に入院した11月の初旬のことだった。義兄の家族がそれを知ったのもほぼ同時期だったという。
医師の説明では兄のガンは治療中に血液に入って、肝臓、脊髄、それから頭へと転移していったという。

初めて、夫と一緒に兄を病院に見舞ったのは12日のことだったが、その時も元気とまではいかなかったが、しっかりしていたので、医師に余命1ヶ月なんて決めつけてほしくないと思ったし、可能性だってきっとあるはずだと思っていた。
もしも、別れの時がやってくるにしても、だんだんと悪くなっていく兄の様子を義姉の家族と共に枕元で見守りながら見送ることになると思っていた。
それなりの心の準備はできるだろうと漠然と考えていた。

これまでにも経験してきたことだけど、不幸というものは何の前触れもなく、足音もたてずに突然にやってくるものだと実感して、虚しくなった。
義兄とは同じ敷地内で30年以上も顔を合わせ、義姉共々仲良くやってきたので、夫はもちろんだが、私のショックも大きかった。

葬儀も終わり、2週間経った今も、兄の死はあまりにも突然で信じられない。
博学で、包容力があって頼りになる義兄のことが、私は大好きだった。


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放送大学 [私のこと]

放送大学の10月入学生の募集が始まっている。募集期間は8月15日までとなっている。

家庭の事情で、行きたくても大学に行けなかった私は、いつかは大学に行きたいと思っていた。6年半前、教育情報誌の編集記者の仕事をやめたとき、仲のよい友だちが放送大学に在学していたこともあり、ワクワクしながら入学した。

私の場合は、大学の卒業資格を得るためというより、とにかく大学生になって勉強したい思いが強かったので、4年間は一生懸命に勉強した。その間は、別の仕事をしたりして、夜しか勉強時間が取れないこともあったが、教科書だけは必ず開き予習や復習に励んだ。

テスト前になると、テレビやラジオで聞き漏らした科目を勉強するために、茗荷谷にある学習センターにも足繁く通った。そこに行くと、老若男女たくさんの人たちがテレビやラジオを前にイヤホンをつけて真剣に勉強しているのだが、私はその雰囲気が好きだった。

勉強が大変でなかったといえば嘘になるし、自分で選んだ科目とはいえ、講師陣の中には眠たくなるほど授業が退屈な先生もいないわけではなかったが、総じて、先生の質は高く、講義内容も充実していた。

私は「発達と教育」が専攻だったので、教育と心理学関係の教科が多かったが、それ以外にも哲学や文学、福祉、政治、英語、体育、経済や文化人類学など、多岐にわたって勉強した。

放送大学に行って一番役に立ったと思ったことは、以前に比べると教養がついて、自分の立っている位置がわかるようになったことだ。そうなると、物事や 他人に対する距離のとり方もわかってくる。

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引きこもりの青年への手紙 [私のこと]

高校を卒業して以来10年余り、大学や専門学校にも行かず、職にも就かなかった青年に一ヶ月に1度、手紙を書き始めて間もなく2年になろうとしている。

その間、彼からは1度も返事をもらったことがないので、私の手紙を読んで彼がどう思っているのかわからず、全く一方的な手紙になっている。
それでも、彼の母親からは、彼が手紙を楽しみにしていること、その手紙を大切にしていて母親にはなかなか読ませないことなどを聞くと、ほっとしたりもする。

私が手紙を出し始めてから3ヵ月後、彼は自動車教習所に通い始め、それから1年かけて、免許を取得した。また、1ヶ月間だけだがアルバイトもした。

彼の母親は彼を受け入れているから、彼は救われているともいえるのだが、だからと言って、そのままの状態がいいとも思えなかったので、手紙は私の方から申し出てはじまったことだった。

もし、私自身がひきこもっていたとしても、また、何人かのひきこもりの若者と話した経験から言っても、ひきこもっている状態を続けているのはきついと思う。
彼らは外に出ていくことを親から強制されるのもいやだし、家にいたままでいいと言われるのもいやだという。それが正直な気持ちなのではないだろうか。

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